コラム.01 ⁡ ▶︎オイリュトミーの表現芸術としての「キモ」

オイリュトミーからつながる美しい世界 コラム.01 ⁡ 

▶︎オイリュトミーの表現芸術としての「キモ」 ⁡ 


ドロテアに教わって忘れられない言葉が、 数多くある。 

そのうちの一つが、『主観と客観』についてだ。 


『ドロテアの言葉』は、言わば『シュタイナーの言葉』なのだが、

彼女自自身の吟味や熟考も盛り込まれ、

生徒が理解できるまで丁寧に説明してくださるのが常だった。 ⁡ 


さて、オイリュトミーは表現芸術である。

 表現に携わっていると、そのうち、気になって仕方なくなってくることがある。 

それは、自分の表現が、果たして適切かどうか、である。

不躾に、単に、内面を出しすぎただけ、になってしまっていないかどうか…ひとつ観せると、いつまでもそれが気になって眠れない。 ⁡ 


さて、音楽オイリュトミーでは、ド、レ、ミ等の音、長和音、短和音などハーモニー、音の高低、リズム、等など…、それぞれの要素をどう表すか、きまりがある。

それらを一通り学び、身に着けることが、オイリュトミスト養成につながる、と言っても過言ではない。 ⁡ 


ドロテアがある日、「主観と客観を一致させるのがオイリュトミーである。」とおっしゃった。

音楽を聴いた際、聞こえてくる音が、例えば、ミファソだった時、その音は、自分にとってもミファソだし、他人にとっても、ミファソである。私にとっての「ミ」(主観)、と、他の人にとっての「ミ」(客観)それが一体となるのが大事だというようなことをおっしゃったのだ。

自分が形成する「ミ」の音のジェスチャー、すなわち、腕の高さが肩より少し上で、中心からの流れが指先に至り、そこを超えて響く、そのジェスチャーそのものを、心を込めて形作るところに、オイリュトミーのキモがある。とおっしゃりたかったのだと私は理解した。

短和音を表すジェスチャーは、腕の先から胸の中心へ向かう流れとしてあらわす。私の短和音の体験は、他の人も短和音として体験しており、その体験は同じものだ。それらの音楽の要素のジェスチャーの形成に自分の魂を込めることで、オイリュトミーらしくなるということなのだろう。


同じメロディーを聞いて、ある人は、「枯れ葉が落ちるようだ」と言ったり、ある人は、「憂鬱な秋のようだ」と言ったり、そのイメージ自体は人それぞれ、その人自身の人生経験なども反映されるため、容易に一致はありえない。ただ、そのような心の情景は、音楽を聴いていれば、自然と湧き上がってくる。そういうイメージを使って動きを模索するのは大切だが、最終的に積極的に表すのは、「要素のジェスチャーの形成」、そちらよりに心を込める、それが、オイリュトミー的方向である、という事なのだろう、と理解した。

自分がそれに徹し切れているかどうかはともかく、そういう方向に立った上で、いつもドロテアがなさっていたジェスチャー、上着の前を左右にばっと胸を開き、内面をさらすことはオイリュトミーに必須だ、とのこと。うまくできていれば、おそらく、むき出しにされたような後味の悪さは残らないのではないか、と、私には、思われる。本当にできて いる、いない、は別問題として…。 ⁡ 


いつも、いつまでも、オイリュトミーの道の果ての無い途上にいる。 ⁡ 



〈ご寄稿 瀬戸清美様〉 ⁡ 

▶︎▶︎プロフィール 瀬戸清美 ⁡ スプリングバレー・オイリュトミー学校修了(2001)。 芸術コースを経て現地舞台グループに所属。 祝祭、演劇等、多数作品に出演。 ドロテア・ミアー監督のオーケストラ・オイリュトミー公演ツアー2005に出演。 2006年帰国後、 横浜市で小学生、大人を教える。 ⁡


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